in The Summer

2017年8月15日 某時刻 ????????

「ま、待ったっ!!」
「 ? 」
 ぼくの声に、川の中へと歩いていた女性はワンピースの裾をぬらす寸前で、その歩みを止めた。

「早まるなっ」
「はい?」
 白い日傘を片手に振り返った彼女は、怪訝そうな顔で首を傾げる。
「早まるって、何を?」
 さっくりすっぱり返された問いかけ。
「何をって……あの、何してるんですか?」
「草舟流そうと思って。岸からだとすぐに引っ掛かりそうだから、ちょっと川の中に」
 サンダル履きだし、この陽気ならすぐ乾きそうだし。
「他にご質問は? 成歩堂」
「え?」
 さくさくと答えを返した彼女は、にっこり、というよりにぱり、という表現が似合いそうな
笑顔でぼくの名前を口にした。
「ん?」
「ど、どうして、ぼくの名前を?」
 数瞬の沈黙。
「───そりゃまあ、同級生ですから」
「え? えええええええええええぇっ!?」
「いや、君、驚きすぎ」
 さっくり切り捨て第二弾。
「この時期帰省してるの、君だけじゃないでしょ。そんな時期の同級生との遭遇率なんて
驚く程の数値じゃないと思うけどなぁ?」
 いわれてみれば、確かに。連日ニュースも帰省ラッシュの状態を伝えている時期だ。
同級生の一人や二人、出会う確率は少なくない。
「暑いでしょ、ひなたじゃ。橋の影、入った方がよくない?」
 君、日傘とか持ってそうにないし、と彼女はすぐ側の日影を示した。
「今年は特に遭遇率高いかもね」
 水辺をそのまま歩きながら、彼女は話す。
一緒に歩いて足を踏み入れた日影は、川を渡る風のおかげで格段に涼しかった。
「そうなんだ?」
 ハンカチで汗を拭きながら訊ねる。
「小学校、廃校になるんだって」
「廃、校…?」
「子供減っちゃってるし、仕方ないっちゃ仕方ないけど…やっぱり物悲しいものが
あるよねぇ」
「そ、そうだね」
 知らなかった。あの小学校が、廃校になるなんて。
「みんな集まるみたいだから、顔、出せば?」
「うーん。明日には戻らないとだからなぁ」
 それだけが理由じゃないけれど。
「? 何?」
 じっと見上げる視線に首を傾げる。
「───君に、謝らなきゃね…」
 白い日傘を揺らしながら、彼女はぽつりと呟いた。
「謝るって、一体何を?」
 しばらく沈黙が漂ったのは、彼女が言葉を探していたせいだろう。
「小学校4年生、夏───学級裁判。議長は、私」
 キーワードと共によみがえる記憶。
「い、委員長ぅっ!?」
「はい、正解」
あの日、あの時、議長席にいた人物。
「うやむやに終わった学級裁判で、うやむやになった疑惑の後、君は孤立して、笑わなく
なった。変わらぬ矢張と御剣のおかげで、君は元気を取り戻して…そして、みんな忘れた」

 無実の君を、責めたことを。

「ゴメン、成歩堂…間違っていたのは、私達の方だった」
「───いいよ、もう。昔のことだし。それに、アレがなければ今のぼくはいないから」
 あの出来事がなければ、弁護士成歩堂 龍一はいないのだから。

「ずっと気にしてたの? ひょっとして」
「いや。私も罪人の一人」
「罪人?」
「…忘却は罪って、誰の言葉だったっけねぇ」
 ついっ、とかがみ込んだ彼女の手から、解き放たれた草舟が水面をすべる。
「ありゃ、沈没。昔、よく作って遊んだんだけどなぁ…」
 呟いて立ち上がった彼女は、日傘を傾けて笑った。
「割と最近聞いたの。矢張が犯人だった、って。成歩堂は今まで気づかなかったらしい
とか…」
「うぐ…だ、誰から、それを…」
 矢張だろう。矢張しかいない。矢張に違いない。
「ハズレ。御剣の方───冤罪裁判だったな、ってイヤミ付き」
「会ったのか? あいつに」
「どうして、そこで殺気立つかな」
 溜息と共に彼女が吐き出した呟き。
身長差を埋めるべく見上げる視線は、こちらを「殺気立つ」と評したにも関わらず静かな
ものだ。すべてを見透かすような顔で余裕さえある。それに比べてぼくは…
「検事・御剣 怜侍は死を選ぶ」
「!?」
「やっぱり、原因はそれなわけね…」
「ちょっと待ってくれ。どうして君が…」
「春まで検察勤めだったからね。おおよその経緯は知ってる」
 ───検事・御剣 怜侍は死を選ぶ。そんなメモを残して姿を消した御剣。
「 …… 」
 どうして? 何故? 問いを投げかけても答えは返ってこない。
あいつはもういないから。
どこにもいないから。
つまらないプライドを抱いて、死んだのだから。
「煮詰めて美味いのはジャムとタレだし、溜めるなら功徳かお金がオススメだぞ、成歩堂」
「…うまいこというね」
 ダメだこりゃ。
笑ってみせたぼくに、彼女は小さく呟いて両手を上げた。
 うん、知っている。このままじゃダメだってことくらい、ぼくだって。
だけど───どこにもいけない。前にも、後ろにも。
あがいてもあがいても…どこにもいけず暗い想いだけが降り積もる。
「ったく。バッカじゃないの」
 多分、バカなのだと思う。彼女のいう通り。
「バカがバカなりにバカな考えに捕らわれたところでバカバカしいくらいバカな結果に
たどり着くのが関の山でしょう! …何笑ってるかな、成歩堂龍一っ!」
 「バカ」の用例見本のような言葉に既視感を覚えて浮かんでいた苦笑は、フルネームを
呼ばれたことで、一種の限界を越えたらしい。
吹き出して、こぼれ落ちた笑いは止まらずに延々、延々と笑いの切れ端を繰り返した。
彼女の怒りに油を注ぎながら。

「────────────気は済んだか? 成歩堂…」
(…ううう、こわい)
 地獄の底から響くような声って、こういうのをいうんだろうな。
「ごめん、悪気はなかったんだけど…この埋め合わせは今度会った時にでもするから」
「今度?」
 不思議そうに傾げた首。
「向こうにいるんだったら、今度メシでもどう? 矢張もいるし」
「あん? ……ああ。あはっ、あははははははははっ」
(し、仕返しか?)
 唐突に笑い出した彼女はひとしきり笑い、目尻に浮かんだ涙を拭いながらさっくりと
切り捨てた。
「成歩堂。君、鋭いのかニブいのかよくわからない男ね」
と。
「折角だけど、明日の朝には帰っちゃうから」
「? 向こうに帰るんだろ?」
「そう。向こうに帰るの───牛の背に乗ってね」
(う、牛…? このご時世に…?)
「来るときは馬に乗って、帰りは牛に乗って───わからない?」
 わからないなら、仕方ないねぇ。
日傘を傾けた彼女の口元だけが、笑む。瞬間、気温が下がったような気がした。
「一緒に、来る?」
「…どこへ?」
「地図にない川を渡って、その先へ」
(地図にない、川…?)
 微笑む彼女から、ひんやりとした冷気のようなものを感じて体が強張る。
「───なぁんて、うっそぴょ〜んっ」
「は? う、ウソ…?」
 唐突に軽くなった空気に思わず脱力した。
「うん、ウソ。君、まだやらなきゃならないこと、ありそうだから」
(───ここで一言、叫んでもいいんだろうか)
「いいんじゃない。法廷で実際に聞いたことないし、記念にひとつ」
「異議あり!! さっきまでの凄味は何だったというんですか!」
(正直、怖かったぞ)
 真夏にも関わらず、鳥肌が立つほどに。
「証言拒否」
「な、なんだってぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!」
 麦わら帽子が似合う笑顔で証言拒否と切り捨てた彼女は、返す刀でもう一度
すっぱり切り捨てた。
「法廷では普通でも、日常でそのオーバーアクションは変な人だよ」
と。
(ううう…今日だけで何回斬られたんだろう…)
「委員長…じゃなくて、相上」
「え?」
「?」
 驚いて固まる彼女に首を傾げた。
「───名前、覚えてたんだ」
 確かに、名前呼ぶよりはるかに『委員長』と呼んだ方が多いし、名前なんて
ついさっき思い出したばかりだ。
でも
「…そりゃまあ、同級生ですから」
 自信満々の笑顔で返してやる。
出会いからして驚かされてばかりだったけれど、ようやく反撃できたみたいだ。
「ありゃ、科白コピーされちゃったよ」
 苦笑して見せた彼女は、続けてにぱり、と笑う。
 ちゃちゃちゃ〜ららん、ちゃらちゃちゃっちゃーん…
「うわ、トノサマンだ…君といい、御剣といい…法廷で流行ってるの?」
「流行ってませんっ!! あ、切れた…」
 つい先刻まで鳴動していた携帯電話は、不在着信の表示を残し切れた。
「私そろそろおいとまするから、かけ直せば?」
「あ、うん。そうするよ」
「それじゃあ、元気で。成歩堂」
「ああ。そっちもな」
 何故か、彼女は曖昧に笑って歩き出した。
「あ、そうそう…」
 数歩進んで振り返った彼女は最初に見た笑顔と同じ笑顔で笑う。
「御剣、こっちへ来たって話は聞いたことないよ。まあ、君のことだから百も承知とは
思うけど、ね」
「………?」
 ちゃちゃちゃ〜ららん、ちゃらちゃちゃっちゃーん…
意味が分からずに問いかけようとした矢先、再び携帯電話が鳴った。
彼女は後ろ手にひらひらと手を振り、歩き出す。
「はい、成歩堂です」
『なるほどくん? やっとつながったよ』
「真宵ちゃん?」
『なるほどくん、今、どこにいるの? さっきまで「電波の届かないか電源が入ってない
って」いわれたんだよ』
「え? でも、場所の移動なんて……」
 ふと、視線を落とした白い河原。夏の日差しの照らされて、白く乾いた石の河原。
『なるほどくん?』
「───真宵ちゃん。知ってたら、教えてくれないか? 『来るときは馬に乗って、
帰りは牛に乗って』って何のこと?」
『それって、ご先祖様のことじゃないかな? お盆の時にキュウリとナスで馬と牛を
作るんだよね』
(じゃあ、彼女は、やっぱり…)

白い白い河原。水辺からあがって、歩いていったはずの彼女の足跡はどこにもなかった。